第7回 有機農業教室 〜農薬の危険性〜
夏も終わり、すっかり秋の風が肌寒くなってきました。
10月27日に第7回 有機農業教室が開催されました。
今回の講座と作業は、
・農薬や化学肥料の問題
・大根の間引きと土寄せ、保田先生秘伝のサルハムシの駆除
こちらのブログでは、皆さんにも考えて頂きたい農薬の危険性についてをお伝えしたいと思います。
昭和20年 戦後の食糧難かつ戦争に駆り出されたため、農家の若者不足
焼け野原のため、工場がない+大きな台風
戦後の混乱期に極端な食糧難となった。
政府はとにかく食料を安定させるためにの政策をとる。→化学肥料生産→配給:行政力にて。(チッソ株式会社(現)による化学肥料の生産 政府買い取り→ 日本通運(現):駅からトラックで配給していた時代。
化学肥料 →農作物に虫がわく。→DDT(ジクロロジフェニルトリクロロエタン)による除去(のみ・しらみ)
農薬について:それまで日本に農薬というものはなかった。戦前は農学部というのは天敵による害虫駆除をする研究をしていた。 戦後:農学部は農薬の研究へと変化していった。
1927年 稲の4大病を克服
以後豊作つづき。1930年大豊作を記録する。
シンクイムシが発生。 パラチオンが使われる。パラチオンの毒性について:毒ガス兵器で使用された成分と同一。サリンと同様。 結果、沢山の農家が亡くなった。
パラチオンは昭和40年に使用禁止へ 15年間に約15000人亡くなった。
昭和35(1960年) 除草剤の誕生。
大豊作が経済の高度成長をささえた。
中学にも都会部の会社から求人がくるようになった。(繊維関係の会社や神戸製鋼へ)
その結果、農村部の労働力が減ってしまった。
草刈りの手間が大変だった農村部のニーズを反映した除草剤が誕生する。
PCP(ペンタクロロフェノール)とても毒性が強かった。(農家や家具工場などで皮膚障害や肝障害などの職業病が発生し、7人が死亡、90人に中毒症状が起きている)
昭和45年 農薬の反省期となる。 1971年(昭和46年)に農薬取締法が大幅に改正され、農薬登録に必要な安全性に係る試験項目が追加された。
コウノトリ絶滅について
昭和46年 日本コウノトリ絶滅。
現在のコウノトリはロシアより受贈
保護の歴史:昭和30年 高度成長期に絶滅の危惧のため保護される。
保護を始めた当初は、卵の中にヒナがいたが、死んだ。→ だんだんと卵の中にヒナさえもいなくなった。雄の精子がなくなったのが原因。
農薬の危険性について
昭和25年〜 硫安(硫酸アンモニウム)など、農薬については急性毒性の危険性のみを言っていた。
遺伝子レベルへの影響についても考えるようになる。(特殊毒性)
昭和30年〜45年 慢性毒性について初めて認識される。(水俣病)
サリドマイド 妊婦のツワリ緩和、薬睡眠薬(イソミン)を服用することで腕が短い赤ちゃんが誕生する。(先天性奇形)
・精子形成影響
・子宮内膜症
・色盲など
環境ホルモン(生物のホルモンの働きを狂わせてしまう物質の総称)
がん細胞研究中に偶然発見 樹脂製の培養シャーレから溶け出した成分が影響し、異常な体細胞分裂をしたことで発見。
黒マルチには水溶性の可塑剤が含まれる。プラスチックを柔らかくする成分。溶け出す。次第に溶け出し、プラスチックは粉々になる。
樹脂製のタッパーも可塑剤で成型している。タッパー開けたときの独特の匂い。黄色いくすみの原因。
最近の調査によると、20代男子の精子数 帝京大学4000万~2000万とも言われている。神戸大学で使っているテキストでは6000万との表記。(1ミリリットル中)
昔は1億だった。(1ミリリットル中)
2000万では受精能力がない。
食物連鎖
大型の魚類は魚食をすることで、化学薬品の濃度が高まっている。ハマチが代表。
さらに魚を食べる鳥類:魚粉を飼料としているニワトリ
ハマチ+ニワトリを食料としているのはヒトなんです!
受講された三田の方から「ラジコンヘリを使った農薬散布の直後に、付近を歩いていた小学生が学校できちんとした絵が描けなかったそうです。」といった話も伺いました。
安定した収穫、人手不足、生活の安定などいろいろな要因で農薬が使われるようになってきたことも分かりました。農家さん自身も農薬被害にあうことも多く、背に腹を変えられなぬ思いなのだと感じます。
スタッフとしてもご協力いただいています、三田の藤本さん(リンクはFacebookページ)は保田ぼかし+無農薬で、安心で美味しいお野菜やお米を生産されている農家さんです。こんど無農薬農家さんのお話しも伺いたいなと思います。